「茶師・山道帰一の誕生」

茶師・山道帰一は、台湾の国家資格である「評茶師技術士」の資格を有しています。「評茶師技術士」とは、台湾行政府・茶業改良場によって実施されている「茶葉品質鑑定研習班」に参加し、訓練を受け卒業した者に証書が発行されます。


研修班では次のことを学びます。

1.茶葉の品質が良いか悪い、またその順位について。

2.茶葉の品質における特徴を水色、香気、滋味などから判別する。

3.製造過程において茶葉の品質を決定する,萎凋、攪拌の程度がどう茶葉に影響しているかを学ぶ。また品種の区別、烘焙の程度が茶葉の品質に与える影響について学ぶ。

茶師 山道帰一が誕生するまで

「お茶で広がる世界」

お茶好きにはいろいろなタイプがあって、茶道具を愛でる人から、作法である茶芸にのめり込む人、茶葉、茶器をコレクションする人まで、実に様々です。僕はその中でも、純粋に味にこだわりが強かったです。お茶の香りも味とは切り離せません。香りが味の輪郭を作る部分がとても大きいのです。だから、香りも追求しました。
そして、大学を卒業するころには、大抵の中国茶のテイスティングは出来るようになりましたし、飲みたいお茶のイメージもすぐ湧いてくるようになりました。
今にして思えばその頃は、様々な意味で自分の世界が大きく広がっていった時期でした。

「数寄者いざ台湾へ」

もともと中国文化に強い関心があり、子供の頃から気功や風水などを含んだ東洋思想でもある五術を家族から教えられていました。思えば僕は、昔から数寄(風流・風雅に心を寄せること)にのめり込み、詩を書いたり、大学時代にはマニアックにも篆刻(てんこく)と書道を習っていました。また某大学機関に併設されていた医療気功の講座に通っていたので、頻繁に中国へ病院研修に行っていました。

やがて大学卒業が近づくころには、進路についてかなり悩みましたが、限りある人生。自分のやりたいことをしようと思い、五術文化が最も正統に保存されていると思われる場所として、台湾留学を決めました。

「台湾留学」

台湾に留学したばかりの頃は、語学学校に通いながら、道観と呼ばれる道教の寺院を訪ねたり、書店に足繁く通っては五術関連の本を買いあさったりの日々を過ごしていました。その後、行きつけの本屋さんから紹介を受けて様々な先生に出会い、僕の風水や道教のフィールドワークがスタートしました。

お茶生活に関しては、当時は台湾茶の事情を何も知らなかったので、ガイドブックを片手に、台北のお茶屋さんを一通り回ってみました。その時はじめて、高山茶を飲み、その味と香りにとても感動したのを覚えています。

「特等獎のお茶を買う」

家族から、「品評会のお茶を買ってきて」と頼まれ、台湾南投縣鹿谷郷に向けてはじめて一人旅をしました。品評会前日に近くの民宿に泊まり、朝一番で品評会会場に行きました。

ところが、会場でいくら探してもそんな茶葉などどこにも見当たりません。優良、頭等獎と表記されたものはあるけれど、「特等獎」はないのです。それもそのはずで、特等獎は当時、6,000 点以上出品された茶葉から一点しか選ばれないナンバーワンのお茶です。そんなお茶は、当然、特等獎に決まったとたん、どこかのお金持ちが買い占めてしまうのです。

そんなこんなで途方にくれ、品評会会場のブースでお茶をすすりながら、「日本から来たのに特等獎のお茶を買えなかった」と愚痴をこぼしていました。すると、たまたま横にいた現地の人が、「ちょっと待っていろ。俺が持ってきてやる。特等獎、高いけど大丈夫か?」と言い、10 分もしないうちに調達してきてくれました。

そしてさらに驚いたのは、たまたま愚痴をこぼしたその人が、その年の特等獎の受賞者だったのです。

この方、廖塘華氏は、現在「茶通」で仕入れている凍頂烏龍茶の茶農家さんです。また、彼は優秀な製茶師でもあり、台湾最大規模の品評会で四回も特等獎を取った最多記録保持者です。その後しばらくは品評会の展示場で大量に買った凍頂烏龍茶に夢中でした。また、台北で買える高級茶でも、品評会の三等獎のレベルにも及ばないということを強く感じるようになりました。

「高山茶との出会い」

品評会に続き、もう一つ衝撃的だったのはやはり梅山高山茶との出会いでした。当時は、友人たちを家に呼んではお茶会をして、品評会のお茶を愉しんでいました。そうしたら、友人の一人が「そんな高いお茶より、もっと安くてうまいお茶を知っている」と言うのです。特等獎のお茶よりうまいお茶があるなんて信じられない気持ちでした。

その後、論より証拠ということで、その友人に連れられて、嘉義縣梅山郷の龍眼という高山茶の産地に向かいました、その友人のお祖父さんが茶農家だったからです。そこは深い霧が立ち込め、横殴りの雨のようになった天候の中を、一人が車を降りて運転手を誘導しながら、ガードレールもない危険な道を上っていくという壮絶な場所でした。そのような烈しく霧が立ち込めるところこそが、いわゆる高山茶と呼ばれるお茶が育つ環境なのです。高山で朝夕の温度変化が著しく、茶葉に水分を常に保湿することが出来る環境だからこそ、茶葉は肉厚に育ち、芳香な味わいのお茶となるのです。

龍眼村に着き、そこで飲んだ味と清香は今でも忘れられません。すがすがしく、薄黄色の水色に漂う、梅山特有の花香。その魅力に一瞬にして取りつかれてしまいました。友人の言ったとおり、僕の自慢の品評会物のお茶は見事に膝を屈したのです。

その後、阿里山高山茶の品評会に行くようになり、様々なランクのお茶を買っては飲むことを繰り返し、自分の中で確かな味の指標体系を作りました。僕の古小見が完全にこの梅山で飲んだ高山茶に傾倒しはじめたのもこの頃です。

「梅山高山茶と命名する」

阿里山高山茶の品評会に行くようになった当時は、海抜2,000m 級の山々が連なり、十三連座の阿里山山脈で採れるものはすべて「阿里山高山茶」と呼ばれており、「梅山高山烏龍茶」という名前では呼ばれていませんでした。

梅山郷農會が主催する阿里山高山茶の品評会リストより、瑞里村、瑞峰村、太和村などを訪ねるようになり、中でも瑞里村の茶商にして茶師の林淑媛さん(りんしゅくえん)のお茶がとても好きになりました。それから、毎年の春茶・冬茶シーズンには彼女を訪ね、自分の好みのお茶を半年分ほど買うというのが、僕のライフスタイルの一部になりました。

また、梅山茶の魅力にはまっていくにつれ、梅山という独特の高山茶がノーブランドで「阿里山」という名でまとめられているのはとても惜しいと思いました。そして、林淑媛さんに「梅山の高山茶は、その他の高山茶と一緒くたに売られてはいけない。この味ならば絶対にブランド化できる」と提案しました。

その僕の提案に、林淑媛さんは賛同し、梅山郷でおそらく一番初めに「梅山高山烏龍茶」という名称で販売をしました。

現在は、すっかりその名は定着し、ブランド力があった凍頂烏龍茶よりも、今日では梅山高山烏龍茶のほうが高値で取引されています。

梅山高山茶は私の心を揺さぶるほどの青茶との出会いを演出してくれました。今でも梅山高山茶への興味は尽きません。